小沢一郎

一郎によれば「父は三十歳の時から東京の市会、府会議員となって、政治の世界に入り、戦後は郷里から衆議院議員として国政に参加した。その長い政治経歴を評価されて、国会運営や党の国会対策の実務を担当し、たびたび選挙対策本部長となって選挙の采配を揮っていた。その父は小選挙区制の導入を持論としていた」[171]、「親父は、じいさまに溺れて身上をつぶして水飲み百姓小作人のせがれとして食うや食わずで育ったんだ。それで、ものすごく貧乏だったせいかどちらかというと反体制的な考え方だった。戦後経済万能主義の社会や政治を嫌悪していたし、エスタブリッシュメントというものに対する反発を非常に強くもっている男でした」という。

 

「みちは明治三十四年二月十五日千葉県の元名主の娘として生まれた。実家はかなりの豪農で、生まれたときからお嬢様として育てられた。九段の精華高等女学校では、のちの鹿島建設会長夫人になる鹿島卯女も同窓だった。生家は“からよその土地を踏まずに家まで帰ることができ、通学には駅まで人力車で往復していた”というほどの大地主だった。父親の儀助も人望家で千葉県の大物県会議員であり、裕福だった。両親はともに教育熱心で、のちに医者弁護士になっている家族も多くおり、兄弟は軍医中尉で戦死している。